神様だけが大事だから!!
というのは正直よくわからない
さらには、間違っているとさえ思います。
なぜなら、それを聞いた、キリスト教徒無関係の人は、
「あぁあの人は神だけを見て、家族をないがしろにする人なんだ。」
「宗教っていやだな」
と思ってしまうからです。
聞く人に気を遣うなら、決して誤解を招く言い方をしてはいけないと習いました。
たとえ「真実」であっても、誤解をされる表現とはたくさんあります。
言い方に気をつける必要があるんです。
例えば、
「私は神様だけを見て歩いていきます!」
→ (いやいや目の前の仕事や人間関係も見てよ)
「神様が全部やってくれるからもう大丈夫」
→ (いやいや一応君が努力するからできるんでしょ)
という感じです。
とにかく聞く相手が常に自分と同じバックグラウンドでないので、
変な誤解を招くことは、損です。
そもそも、神とつながる、神を礼拝するとは、
日常生活の中のことでしかありえません。
神への礼拝ということも、見た目は、結局は俗っぽいのです。
「受験に合格しました! (神様ありがとう。)」
「ご飯がおいしい! (神様ありがとう!)」
「友達ができました! (神様ありがとう!)」
「試練を与えてくれてありがとう!」
どれもこれも、現実の世の中と密接にリンクしていて、決して、一般的に
いうところの、「聖なるもの」ではないのです。
このように、誰もが、日常生活において、神を礼拝できるし、
意識せずとも、すでにそうしている人が多いのです。
そのためには教会(建物)に行く必要はありません。
行きたいなら行けばよいです。
もっと神のことを知りたい! と思えば聖書を読めばいいのです。
でも、神のことを知るためには、聖書以外の方法もあります。
人から聞けます。
聖書の注解本もあります。
様々な方法を組み合わせて学んでいけばいいと思います。
(ただし、実際に聖書に触れるのは相当良いトレーニングになります)
そうして神について学んで喜びをもらうとき、その場所が、あたかも教会、であるかの
ような状態がつくられます。
地球全体が礼拝場所であり、その意味では教会なのです。
なぜなら、礼拝とは心の持ちようが最も重要だからです。
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(ユダヤ人である)イエスは女に言った。
あなたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、(宗教の中心地とは限らない)そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがた(=日本人)は知らないで礼拝しています。(知らなくても礼拝はできる!)
しかし、真の礼拝者たちが霊とまこととによって父を礼拝する時が来ます。
今がその時です。
父はこのような人々(本気で生きる人)を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する人は、霊とまこと(=一生懸命な心)によって礼拝するのです。
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