中島敦の小説、名人伝、では、弓道に励む紀昌という青年が、弟子入りをします。
誰にも真似のできない射術を覚え、紀昌は師をもしのぐほどの腕を得ます。
終わりには、お互いに向かい合って弓を放つと、真中で矢と矢があたって砕け散るほどのレベルです。
その後、紀昌の至った悟りとは、弓矢を使わずに標的を射おとす、「不射の射」といわれるものでした。
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この話から、物事を極めるレベルになってくると、型を破りながら本質的な心を保ち、良い結果も導ける
ことがわかります。
キリスト教の発展がすすむと、日本では、きっと、心の中で祈るが声に出しては祈らず、そのままの姿で
伝道する伝道者が、もっともっと生まれてくると思います。
イエスキリストや、愛、といった、日本人に難しいコンセプトを、「キリスト」「愛」というそのままの語句を
つかわずに表現しメッセージを作れるひとが増えていくはずです。
そのとき、信仰を告白して自称クリスチャンと言っている人たちの中で、いますでに活躍している、
斎藤ひとり
てんつくマン
大島啓介
斎藤孝
のような人たちも出てくるでしょう。
もちろん、イエスキリストを前面に出していくストレートなメッセージをする人も必要ですが、
日本人の特性を考えると、奥ゆかしさや以心伝心を重んじる、洗練された文化で育っていますから、
直球勝負よりは、より練られて勉強されたメッセージがウケるはずです。
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